審査員特別賞受賞作品③
福祉職として触れてきた「命」
                          ゆっこ

 中学校から連絡メールがきた。中を開いてみると以下のような内容が書かれていた。

「中学1年生も半年を終え、教室に入らずに廊下をウロウロする児童や暴言ともとれる言動が目立ち始めていたが、学校としては指導を徹底し・・・」などというありきたりな文章だ。私はそのメールをすぐに閉じると、頭の中に今年の小学校・中学校の不登校数、29万人超え、そして悲しいことに自死数も、小学校・中学校・高校合わせて、500人を超えたという過去最高数値をめぐらした。

 「いじめはいけません」
 「みんな仲良くしましょう」
 「人の立場にたてる人間に」

 などと、表面的に「美」ともとれる言葉を並べ、発言することほど容易なことはない。

 少しまえ、次男の部活動担当顧問から電話がかかってきた。
 
 「この度は、いきすぎた指導をしてしまい、他の保護者さんから意見が多数よせられ、監督をおりることになりました」と。次いで、「〇〇くんは元気にしていますか?」と。丁度、コロナがはじまった頃、小学生4年生だった次男はコミュニケーションでの緘黙(言葉を話せない場面がある)1か月学校にいけなくなり、その後何とか6年生までポツポツ出席できていたものの、中学1年生の1学期で燃え尽きてしまい、2学期から投稿できなくなった。私の体調不良での退職も重なり、環境も思春期の子供をしめつけたのかもしれない。そんな事を思いながら携帯を触っていると、着信がなった。中学校からだ。「テストについて、と、あとは担任の女性教師が長期休みに入った」というものだった。医療福祉関係で20年以上勤務していた私の思いでしかないが、2学期に入ってからも相当苦労をされたのだろうと、メールをひらけたことを思い出した。

 何がいいたいのか。

 生徒のいじめや、不登校、自殺率、を考えるとき、教師として、教育を教える立場として、綺麗なことを言いながらすすんでいかないといけない。でも、教師も人間であり、20代の若い先生からすると、保護者からの言葉で病気になってしまい、過去には仕事を退職、亡くなった教師も多数いることだろう。

 「いじめ」
 「不登校」
 「自殺」

 以上を文字にして考えるとき、子供だから、児童だから、教師だから、ではなく、人間として教師も、教師の命も守る必要がある。

 今は携帯が普及し、便利になり、顔の見えない相手にも簡単につながれる。SNSというものが普及し、簡単につながれると思ったら、簡単にブロックという機能も使える。

 「人は一人一人、感性が違う生き物だ」

このことを念頭に置いておかないと、単なる簡単な自分にとっては安易な言葉や行動が「ある人」にとっては全く違う出来事、言動・行動になって伝わってしまう。

 「人は一人一人違う背景をもっている」

 生まれた環境も、育った環境も、みんな違う。  
 社会福祉的な範囲にまで広がると、核家族化がすすみ、みえないところで、小さな虐待と呼べるようなことも密室で行われている。児童相談所を責めるわけではないが、亡くなってから「原因」を探っていたのでは遅すぎる。

 「今後は対応を変えて・・・」など聞き飽きた言葉であり、早期発見のまえに予防の必要性、金銭についてや、いろんな課題や問題が社会の構造と複雑に絡み合っている、だから起きることも考えられる事象なのだと私は思う。生活保護や、精神科病院、そして、発達障害、いじめ、教育現場、いろんなところにかかわってきて、また、実際に中学生対象に講演会をさせてもらって、子供が悩んでいることは良くも悪くも「子供の人生の歩みの分」に限るということがよくわかった。部活・試験・進学・人間関係、大きな視野を、まだ未熟な社会経験の中で、必死にもがきながら、目の前の世界が「全て」になりやすい。そう考えると、一番多い高校生の自殺(男子)の理由が「進学」というのも理解できる。大人からすれば、何とかなるだろうし、そんなに「進路」くらいでおもいつめなくてもいい、という方もいるが、未成年の悩みは先を見据えてというよりも、どうしても経験不足から「今」なのだ。だから、今自分は人と違う、とか、人と同じようにできない、などという「他人」の存在が「集団」になり、いつしか「自分だけ」という「孤独」を生んでしまう。

 背景に社会の縮図である日本の特徴ともいえる画一的な教育方針、家庭社会に潜む「甘えたい時期に甘えられず否定されてきた」見えない傷、など答えはないくらいの糸が絡みあっている。その結果の現象が「いじめ」や「自殺」につながると私は考えている。仕事を通じても、自分の子供を通じても、専門家として、母として、悩んで悩んで考えてきた事。それは「命の大切さ」を教える前に、「あなた、一人」の存在」が、まずは大切なんだよ、と伝わらなくても、時間がかかっても目をみて、伝え続けていくこと。それは家族でなく、他人でも、教師でも、近隣のつながりでもいいとおもっている。

 またテレビから大阪のグリ下のニュースが流れる。オーバードーズという言葉が流れる。いかに「防ぐ」か、という表面的な言葉が流れる。「防ぐ」「指導する」も大切な行為であることは間違いない。ただ、その前に、どんな内容の話をしようと、オーバードーズしたいといったとしても、まずは否定から入らず、それだけ、何らかの背景の糸が複雑にからみあった結果であること、本人もそうしたくてここまできたわけではなく、生きるすべでもあることを、心の中に置いておかなければならないと思う。

 「人はみんなちがう」
 「あなたはあなたでいい」
 「逃げることも、たまには必要なこと」
 「人生平均寿命70年ほどある中の一瞬の今であること、2~3年、4~5年、もっとかかってもいい、生きるという仕事ほど単純なのに、しんどくて困難なことはない」

 それは、決して未成年だけではなく、命に関して、そう思うのだ。相談できる人間は誰にいわれなくても他人に相談できる、できない人間に「相談するように」といっても、それができないから苦しい。もしも、家族や知人で悩んでいる人間=命に触れたときは「あなたは存在していいこと」「自分にとっては大切な大切な存在であること」を伝えてほしいと願ってやまない。

 話が随分、それてしまったが、若年層の不登校・いじめの問題に戻るとき、表面ではなく、絡まり切った糸が、また、画一的からはみでることを許さない、恐怖でしかない環境をうんでいることをみとめつつ、いろんな手段、いろんな生き方がこの世には存在していることを広めていきたいと思う。学校にいくことだけが全てではない。いけない自分を責めることもない。不安になる保護者を支援するものが存在してほしいし、それが児に帰っていくことも認識してほしい。社会での居場所を失い、安全基地であるはずの家庭でも「いい子」を演じ、何も相談できず、一人悩み切って死んでしまう、縮図を、糸を1本でいいからほどきたい。

 思春期の集団は集団で、はみでないように、いじめられないように、出て行けといわれないように、必死にしがみついている事も多い。 発達障害などもクローズアップされてきた昨今、少子化の昨今、核家族化の多い昨今、共働きの多い昨今、そういう時代だからこそ、見えやすいところと、一層、SNSなどのように見えにくいところが凹凸となり、教育現場の児童だけでなく、教師も、一人の人間として背景があること、私たちのような医療福祉職がもっと活躍できる場がふえていくこと、相互扶助から始まった時代のように、遠くて近い携帯の顔も知らない人間ではなく、家にいても、それぞれが一緒に居ながら携帯に向かっているだけではなく、そんな時間もありながら、そんな時代もみとめながら、

 「生き方は一つではない」
 「はみ出る、ではなく、自分と生きる」
 「友達を大切に、の前に、あなたが大切」

などのメッセージをふんだんに入れながら、今一度、生きている「奇跡」を、決して「あたりまえ」ではないことを伝えていきたい。



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